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ウイルス学者山内一也氏のお話から

「…生命の一年歴というものがあります。これは地球が46億年前にできて、そこから現代までを一年に例えると、ウイルスが出現したのは5月の始めです。人間が出現したのが12月31日の最後の数秒だった。ほんのひととき。ウイルスにとっては取るに足りない存在だと思うのです。 コロナウイルスに例えて言えば、コウモリという宿主でずっと一万年前からいる。(ウイルスが)人間の方に来なければいいだけですが、来るように仕向けているのが人間社会なのですね。ウイルス対人類と考えてもいいですが、ただ敵というか、勝つとか負けるとかいう相手ではありません。…」(山内一也氏のお話からの引用) 非常に興味深い内容だった。愚かで脆弱な人間としてこの世に今生きている私達は、この世に起こるあらゆることをできる限りあるがままに見つめることが肝要なのだと私は思う。 畏怖と驚嘆の念を持って。

アブさんの日本滞在記 その4

F社での仕事はおおむね順調でコツコツ働いて貯めたお金でなんとかスーダンに家を建てることも叶ったのだ。 Y社長は親切で、アブさんの母親が亡くなったときも帰国もままならず、気落ちした彼にお見舞い金をそっと差し出してくれたりもした。 ところでアブさんは数年の間に何度も転居している。(定住できない事情があったのだが) F社勤務もそろそろ10年になろうかという頃、同郷の友人Mと二人で部屋を借りていた。 ある日Mは唐突に、 「実は、近所のコンビニで知り合いになった日本人女性と結婚しようと思う。」 と言い出した。そして、 「ここは襖で仕切ればふた部屋になるから、彼女を連れてきて一緒に住めないだろうか。」とも言った。 アブさんは少し驚いたが、仲間の結婚を祝福してしぶしぶ承諾した。こうして3人の共同生活が始まった。 はじめは和気あいあいと暮らしていたのだが、やはり新婚カップルにおじゃま虫という構図は日に日にあからさまになっていく。 カップルは何かにつけてアブさんに意地悪するようになる。例えば、彼がいない時を見計らっては二人でおいしいものを食べたりもしていた。彼は次第にMといさかいが多くなり心痛める日々となった。 ここを出たいと考え同居する友達を他に探したが、その頃には他の仲間たちもそれぞれ結婚したり、帰国したりして徐々にバラバラになっていた。 ついにアブさん、意を決して一人暮らしをすることにした。日本に来てはじめてのことだった。 見つけたアパートは6畳一間風呂無し共同トイレ。古い木造アパートだが、仕事場からも駅からも数分の便利さ。何より大家さんは優しいおばあちゃんだった。 新生活を始めるには申し分ない物件である。 一人暮らしにも慣れてきたある初夏の夕暮れ時、仕事から戻ったアブさんの携帯が鳴った。久しく話していなかった友人のZからの電話だった。Zは大使館勤務のため普段は会うこともないが、何か特別なニュースがあるのかもと電話に出た。 Zはいつになく弾んだ声で、 「アブさんに紹介したい人がいるんだが、」 と言った。 アブさんの運命が変わる瞬間だった。 いやあらかじめ決まっていたことがこの日このときに目の前に降りてきたということかもしれない。 つづく

アブさんの日本滞在記 その3  

日本の暮らしにも少しずつ慣れて、言葉も多少わかるようになってきた。次に、定期収入を得られる仕事が必須になってくる。 そこでアブさんは同居人のひとりであるSを伴い職探しに出た。その方法がなんとも無謀でのどかでアフリカっぽい。町をぶらぶらしながら、手当たり次第に会社を見つけてはとびこむのだ。アブさんとS、交互に一人ずつアタックする。 いくつもの会社をあたり、脚が棒になりかけたとき、Sはねをあげてしまった。 「もうあきらめて帰ろうよ、アブさん。この辺りじゃ仕事は見つからないよ。」 しかしアブさんはしぶとかった。 「次は私の番だから、もう一回頑張ってみる。」 と言って、とび込んだのは株式会社Fという看板を掲げた工場だった。 「こんにちはー。」元気よく入ってゆくと、30代後半と思われる女性が出てきた。 「なんでしょうか〜。」 訝しげにアブさんはを見た。 「仕事ありませんかー。」 だめもとでひとこと。 すると女性は少し考えていたが、 「ありますよー。」 答えたのだ。 「どちらの国の方?」 「スーダン。アフリカのスーダンです!私ともう一人友だちがいます。いいですか?」 「できれば数人欲しいんだけど。」 女性の思いがけない言葉にアブさんは叫び出したい気持ちになった。 「はいっ!。5、6人ならゼッタイだいじょうぶです!」  自信満々に言った。 この吉報を持って外で待機していたSに伝えた。 「仕事あったよ!私たちみんな働けるんだ。アルハムドリッラー。」 執念の仕事探しは成功して、その後10数年もの間Fという会社は日本に来たスーダン人が最初に働く場所になったのである。

アブさんの日本滞在記 その2

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仲間に助けられての日本の暮らしは続いていた。衣類はもっぱらどこかの古着屋で調達することが多かった。安くてサイズぴったりのジーンズが見つかり履いていた。 ある日、腰のあたりが痛かゆいなと思っていると、その不快感は日増しにひどくなり、皮膚が化膿して出血してズボンにまで染み渡るほどになってしまった。生まれて初めての出来事にアブさんは恐れおののき、仲間に付き添われて病院デビューした。 診察を終えた医師は何か説明していたがやっぱりわからない。とりあえず処方された薬を塗り、絆創膏を貼って様子を見ることになった。 アブさんが家で休んでいると、心配して訪ねて来た友だちがアブさんの患部を見るなり顔をしかめて言った。 「アブさーん、これひどいよー。これエイズだよ、きっと。」 これを聞いたアブさんがまに受けて打撃を受けたのは言うまでもない。 アブさんはショックのあまり数日間寝込んでしまった。はるばるやって来た日本で、何も得ていないうちに、自分は死ななければならない。哀れな自分を思い、布団の中でおいおい泣いていた。 やがて薬が効いてきて数日後にはほぼ回復した。アブさんはエイズじゃなかった!アルハムドリッラー。 しかし、彼はそれ以来どんなに貧しても古着を身につけることはしなくなった。 (古着と皮膚病との因果関係は不明のままだが)。 続く…  【 散策 神社へ向かう道の枝垂桜は満開を迎えて】  

アブさんの日本滞在記 その1

アブさんが初めて日本の地を踏んだのは1993年5月のことだった。もちろん日本語はひとこともわからず、日本という国についての予備知識だって皆無だったが、すでに来日していたスーダン人仲間をたよりに新しい生活に飛び込んだのだった。 アフリカからやってきたアブさんの1番の苦手は日本の冬である。初めて迎えた冬のある日、数人の友だちと同居していたアパートに1人でいたアブさん。初めてひとりで外出してみた。と言っても寒すぎて数十メートル先の角までがやっと。 ふと見ると飲み物の自動販売機がある。日本ではどこにでもあるが、スーダンでは見たことがなかった。身を縮ませながら珍しげに見ていると、通りがかりの警官が彼のところに近づいてきて何か声をかけたのだ。 を言ってるかわからないアブさん、これは不審尋問されてると思い身構えた。するとこの警官はポケットから小銭を出して缶コーヒーを買い、それをあぶさんに差し出したのだ。びっくりしたりほっとしたり、アブさんはその温かいコーヒーを両手で包みながら頭を下げた。初めて触れた日本人の優しさだった。そしてぬくもりだった。アルハムドリッラー。 つづく…

試練のときに

生きていればさまざまな問題に出くわす。もしひとつの問題から逃れたならば、あなたはまた次の問題に襲われる。おおきなできごと、小さなできごと、心を引き裂かれるような、どうしようもないできごと。それらはあなたが死を迎えるまで終わらない。 この世で人間に降りかかる試練や苦難はすべて神がずっと以前にお決めになったことが、お決めになったときに、お決めになった人間にやってきているにすぎない。そう、私たちにはその配達物を日時指定にすることはできない。受取拒否も転送も無理。 それならば、受け取り手の私たちにできることは何だろうか。 本来、良いことも悪いことも全ては神からのものだが、人間に起きる悪いこと(自分にとって辛く苦しく感じること)は、自分自身の罪ゆえなのだという。 その意味は、私たちの心を器に例えるなら、神が注がれる水がよく磨かれたガラスの器に入れば、その水の透明度は保たれる。が、もし初めから汚れた器に入れば、その水は濁って悪臭さえ放つ。日頃から自分の器をより透明に近づけるような心がけは大事であろう。 試練の中にいるときは、あなたに心の余裕があるなら、100パーセントの解決などないということ、5パーセントでもベターと思えることに体を向けることを考えてじっと堪えることが良いと思う。もし、あなたになんの力も残されていないときは、ただしゃがみ込んで待つこと。しゃがみ込まないと見えない景色もきっとある。 そして忘れないで欲しい。全ての問題は必ず終わることを。背負い込んだあなたの荷物の分だけ神はあなたを愛しているということを。 憂に満ちたその横顔には神の恩寵がすでに見え隠れしている。 だから大丈夫…。

小さな楽しみ オオカマキリの卵

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近所で見つけたオオカマキリの卵。二月から毎日のように観察して、今日も無事だった〜と安心したりしている。 枯れ枝にしっかりとくっついていて、中にある数百個の卵は天然の断熱材のようなもので保護されている。 ちょっと触れてみると、ちょうどメレンゲを焼いたものと感じが似ている。 4月ごろ可愛らしい子供たちがゾワゾワ出てくる予定である。しかし、めでたく出てきても大人になるまで生き延びのはたった数匹らしい。 それはまさに創造主の計画どおりである。カマキリは自分がどのくらい地上で生きられるのか知らずに出てくる。人間だっておんなじだ。ある日この世に落とされて意味もわからず生きていて、そしてある日死んでいく、それだけのことだ。 もちろん私はこのカマキリの誕生の瞬間に立ち会いたいという軽い願望があるが、例えそれが叶わなくてもしかたない。 ある日卵が吹っ飛んでしまっても、人間の足で踏み潰されてしまっても、創造主の計画が実行されたことに私は畏怖の念をおぼえるだろう。 小さな楽しみは消えても、創造主の御力の現れに私は満足するだろう。 とりあえず今日も私の小さな楽しみは安泰だった。