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12月, 2020の投稿を表示しています

第5回目のお話 Wild Mind

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  イスラームの教えによれば、人間は弱く作られているとも、人間は自らをコントロールできないとも言われている。 確かに辛いことからは逃げたいし、誘惑にもすぐ負ける。一度決意したことだってたやすくあきらめてしまう。大いに自覚するところだ。 誰でもこの内なるwild (いつでも活発で危ないことや馬鹿なことをしたりするけどとても面白い) mind (心)とつきあわなくてはならず、ときに上手に手なずけなくてはいけない。wild mind が騒ぎ過ぎて収拾がつかなくなったとき、どうすればいいのだろうか。一応 “信仰" という軸を持っているならば、その軸がぶれないようにしていたいと思う。 人それぞれやり易い方法でよいと思うが、私のおすすめはこうだ。 まず身体の力を抜いて、この厄介なこころを一旦宙に投げ出してみる。個人的なジャッジをやめてまず解放してやる。その次になんでもよいから何かをする。たとえば、本を読む、祈る、体操する、掃除する、etc。できれば夢中になれること(時を忘れるくらい) をする。 意味がないと感じることでも心を空(くう)にして何かに没頭しているとき、かならず主は私たちの行いをご覧になって認めてくださっているから。 そうしているうちに静まったmindを自分の中にもどしてあげよう。 ほんの少しでも楽になれた自分が確認できるに違いない。 軸さえぶれていなければ大成功なのだ。

第4回目のお話 散歩の効用

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 体調管理の目的で始めた散歩。いつのまにか私の日課になっている。往復でも30分ていどの短い距離を歩くのだけど、この散歩がもたらすよいことについてお話ししたい。 もちろん冷え切って硬くなっていた体がぽかぽかしてきて、足腰に適度に刺激がいくから体が軽 くなる。これはよいことだ。 だがその他にもう一つ私が見つけたのは「共感」というよいこと。 道中出会うさまざまなものたちとの共感。 たとえば風に揺らぐ葉っぱたち、木々の間をさえずりながら飛ぶ小鳥たち、そして大空に浮かぶ雲たち。私はそれらがいる世界に溶け込んでひっそり仲間に加わっている。 どうして仲間になれるのかと考えたら、それらが一斉に向いている方向と祈りを捧げている対象とが私と同じであるからだ。 だから「共感」する。  散歩の直前、私の心に隙間があってそれは恐らく誰にも埋められなくて、わたしは寂しかった。 でも30分の散歩の後では私の心はすっかり満たされて寂しさは退散しているのだ。 これが散歩のとっておきの「効用」といえる。  散歩コースの春夏秋冬  ☆春 桜が満開   ☆☆☆  ☆夏 南国の木みたい?     ☆☆☆   ☆秋 穂と花たち ☆☆☆   ☆冬 遠くに見えるのは〇○山?

第3回目のお話 「おばあさんとタクシー運転手」

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病院前のバス停のベンチに腰かけてバスを待っていたときのことである。一台のタクシーが目の前に止まった。乗客は高齢の女性だった。 まず運転手さんが降りてトランクから彼女の手押し車を取り出していた。後部座席のドアは開いているのだが、おばあさんはなかなか降りてこない。手提げ袋を開けたり閉めたり、座席の上や下をなにか探していた。かなり手間取っている様子を見て、運転手さんが声をかけると彼女は財布が見つからないと言う。 それを聞いた運転手さん車の中や手押し車の中を懸命に探す。やはりみつからない。仕方ないので運転手さんは会社に電話して事情を説明するが、運賃未収はダメだと言われ電話を 切った。  「会社がねえ運賃未収を認めないっていいよるんよ。おばあちゃん診察はお金なくても大丈夫なん?それならこうしよう。診察終わったら看護師さんに言ってこの名刺の番号に電話してもらってね。そしたら私が迎えに来て家まで乗せてくから。家に着いたら精算してくださいね。」 運転手さんは丁寧に話すと、おばあさんはうんうんうなずいて 「申し訳ない」 を繰り返した。そしてゆっくり車を降りると運転手さんが近くに寄せてくれた手押し車を押して病院の入り口に向かって歩き出した。それを見届けてから車のエンジンをかけ走り出そうとしたその時だった。おばあさんは何か思い出したようにおもむろに振り返り戻って来た。 「おばあちゃん、どうしたん?」 運転手さんもう一度車から降りて彼女に近寄って行った。すると彼女は 「忘れとったわ。私今日から三日間入院するんだわ〜。」 これがコントだったら最後に運転手さんが 「だめだこりゃ」 とこけてジャンジャンというところだろう。 おばあさんと運転手さんのこののんびりした微笑ましい状況をぼーっと見ていた私の前に待っていたバスはようやく来た。

第二回目のお話「低空飛行」

神さまは高みから私たちをご覧になりすべてをご存じだという。ならばなぜ苦しみもがいている私をつまみ上げてもっと安全な場所へと移動させてくださらないのだろうか? … 私が泣きながら救いを求めているとき、実はもうすでに救われているのかもしれないとふと思った。神さまは奈落の底から私を引き上げて、すでに飛ばしてくださっているのではないか?それがあまりに地表すれすれなため景色はイマイチで私は相変わらず苦しくて叫び続けてるが。 そのことに気づいた時、私の心に感謝が芽生えた。 低空であろうと上空であろうとそれは神さまの御心のまま。もう少しで墜落しそうな私を支え飛ばし続けさせてくださっている。そのことだけがすべてなのだ。 それだけが事実なのだ。

第一回目のお話「発病」 ALアミロイドーシス

 3 年前の健康診査で異状が見つかり総合病院を紹介された。1ヶ月近くかかった諸検査の結果で “ALアミロイドーシス “という聞き慣れない血液の病気であることがわかった。原因不明で進行性の病い。適切な治療をしなければ数年で死に至るらしい。 人間はいつか確実に死ぬし、還暦を過ぎた私の身に何が起ころうとそんなに大騒ぎすることはない。これから起こるであろう体の不調にしっかり向き合ってせっせと自己管理していこうなんて考えていた。病名を告げられてその指針がより明確になったんだもの、ありがたいことだとも思った。 だがしかし、めんどくさいのはその後の月日だった。病気そのものは善でも悪でもない。神様の命令で誰かさんの体に住み着く。それによって患者の体の各部位が侵されてゆく。それだけならわかりやすいが、実際に患者が経験してゆくのは見えないものに対する不安や恐怖、それによる自律神経の乱れなのであり、それは時に病いそのものよりも患者を圧倒してしまう。経験してみてはじめてわかった。 今こうして元気に過ごせていることに心から感謝している。