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第9回目のお話 スーダンからの電話 その2 (ジャラビーヤ)

 スーダンの男性が身に纏ってる白い長衣をジャラビーヤという。これに白いターバンを巻くのがごく一般的な装いである。冠婚葬祭何かにつけて集まることの大好きなスーダン人だが、宴の際にジャラビーヤを着た男たちがずらっと並んで踊る光景は圧巻だ。 このジャラビーヤ、真っ白でどれも同じに見えるが、実はクオリティにも差があり、貧富の差はそこにも表れる。糊付け洗濯したてのジャラビーヤを羽織り、香水を振りかけてターバンを乗せて文字通りパリッとして出かけるのは気持ちいいものだと察する。  先日主人と電話中誰かが主人に近づいてきて数分話していた。電話に戻った主人が説明してくれた。 「今の人は隣人でとても貧しい。家族も多くて食べることで精一杯。ジャラビーヤがもし余分にあれば、どうか恵んでくれないか。」と言ったらしい。 そこで主人は、 「何枚かあると思う。洗濯して綺麗になったら持っていくから。」 と答えたらしい。 毎日身につける衣服がなくて仕方なく分けてもらいに行く隣人。自分もたくさん持ってるわけじゃないのに、躊躇なく上げてしまう主人。 私はこの小さな話に感動して心が温かくなった。私はスーダンにいたときこんな場面にはしょっちゅう出くわしていて慣れていたはずなのだ。なのに今なぜ? ジャラビーヤはたった一枚の衣服だが、これが動くときそれを手放す側と受け取る側の双方が神様を忘れていないから、またそう思えるから私は胸を熱くしてるのかもしれないととても単純に思った。

第8回目のお話 老いなき世界

 近頃ネット上で話題になっている本がある。「LIFE SPAN 」というタイトルでハーバード大学教授によるものである。その中に「今すぐ手に入る "老いなき身体" 」という章があって著者は4箇条を挙げている。それらは、 ① 食べる量と回数    を減らす ② 動物性タンパク  質を制限する ③ 軽い運動をする ④ 適度なストレス  に体をさらす というものだが、これらを見て意外だというよりはやっぱりねと思った人も多いのではないだろうか。近年盛んに言われている健康寿命を伸ばすにはという類いの話と大差ない実にシンプルなものである。  では人々はなぜこの本に興味を持ち、4箇条を実践してみようと思うのか?終末医療費問題を挙げる人もいる。老後自分の家族に面倒をかけたくない、死の直前までゴルフしたいからという人もいる。元気に暮らして楽に死にたいのは万人の望みなのである。  自分のことを言えば、一年前に体調を崩してから健康管理には人一倍気を遣ってきた気がする。ここに書いてある全てではないが自分のできる範囲でやってきた。その理由は何かと改めて考えてみた。 もともとこの世での一時的使用を許された私の身体をできるだけ大切に扱いたい。なにせ神様からの預かり物であるからよい状態でキープしたい。お返しするその日が来たらスッと返却してこの世の任務を終えたいと思っている。ただそれだけを思っている。だから長生きしたいとか、誰にも迷惑かけないようにしたいとか、老後を楽しみたいとかそんなことはどうでもよいのだ。4箇条が神の定めた運命に微塵も影響を与えないのだから。 私はただ今日を生きてゆくためにだけ今日も冷たい風の中を歩いている。

第7回目のお話 心筋生研ともふもふサンダル

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 一年前、心臓カテーテル検査と心筋生研を生まれて初めて経験した。  “ 心臓カテーテル検査とは、カテーテルと呼ばれる細い管を冠動脈の入り口まで通し、冠動脈内に造影剤を流し込みX線撮影をすることで、心筋生研とはカテーテル検査時に静脈から生研鉗子と呼ばれる小さな鉗子を用いて大きさ2.3ミリの僅かな心筋組織を採取する" と書いてあって、主治医もいたって軽い調子で説明するものだから、さして大変な検査ではなさそうだと思わされるが、実際やってみたら恐ろしかったというお話をしたい。  検査前日から入院したのだが、夕食後退屈しのぎにコンビニでも行こうかと病院の廊下をスタスタ歩いていた。すると、通りすがりの見知らぬ中年女性がニコニコしながら寄ってきて 「あらー、素敵な履き物ですねえ。どこで買われたんですか?」と言った。 私は少し戸惑いながら、 「これですか?娘が買ってくれたんでどこに売っているのかはちょっと…。」と応えた。 するとその女性は 「そんな素敵なサンダルを買ってお母様に持たせてくれる娘さんがいらっしゃるなんてお幸せですね〜。」 と告げて立ち去った。 そのサンダルというのがこの写真。どう見ても病院着の足元には似合わないし、ちょっとま んがっぽいし、恥ずかしいなと思っていた。まあお世辞だろうが、その女性が私を少しだけ幸せにしてくれたのは間違いない。  そして当日、検査台に寝かされ局所麻酔が打たれると検査開始。首の血管に針を刺し、管をぐいぐいと入れてゆく。痛みはないが、管が自分の血管の中を通ってゆくのがはっきりわかる。時折ぎゅーっと圧迫される感じがするとともに心拍数が跳ね上がる。すると検査途中でモニタールームの先生方が何か外部と連絡を取り合ったりして様子がおかしい。私のそばにいた看護師さんたちも消えた気配がして急に不安になった。首から管を入れられたまま私は一人残されてしまった。(という感じがした) その時の恐怖は耐え難かった。恐らく数分間しか経過していなかったのだろうが、私には数時間に思えた。やがて看護師さんはもどってくると、「機械の調整に時間がかかってしまいもうしわけありませんでした〜。再開しまーす。」と告げた。 私は最後まで辛抱できるのだろうか?このまま心臓が止まってしまわないか?トイレにもいきたい気がしてきたとあれこれ考えていた。 なにがどうなってもいいから、どう...

第六回目のお話 スーダンからの電話  その1

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スーダンにいる主人からの電話によってリアルタイムでの首都ハルツームの様子をうかがい知ることができる。 このところ"パン屋の行列''の話題が多い。毎日、パンを買うために何時間も並ばなくてはならないらしい。日本のようにどこどこの何々パンとかいう人気商品を求めてでなく、何の変哲もないコッペパンに似た、たった一種類のパンなのだが、これがなかなか手に入らない状況なのだという。( 政情不安で物価の高騰が止まず、小麦粉自体も品薄が続いているらしいが、本当の理由を私は知らない) 先日も主人はその行列の中から電話をくれた。やっと順番が来たと思いきや主人の前の人でちょうど売り切れてしまった。落胆しつつもしかたないので、また別の町に行きパン屋を探すと言う。パン争奪戦…これが日常だ。 今の日本にいれば想像することも難しいスーダンの光景だが、私はこの話を聞くたびに、満たされ過ぎた日本の食文化の中ですっかりぼやけた頭が一瞬にして冴え渡るのを感じる。自分が世界の中心ではないことを再確認できる。圧倒されたような、言葉にできないような感覚に襲われる。一体なぜだ? 家族のために糧を得るためだけに何時間も灼熱の太陽の下で並び待つスーダンの人々の姿が、 その行為そのものがすごくシンプルで、力強くてあたかも崇拝行為の如く 私には映るからかもしれない。 もっとフワフワしてて、とろけるくらいクリーミーな上質パンを求めてでなく"生"のためにだけ糧を求めている彼らを私は少しだけうらやましい。 そうやってゲットしたパンを抱えて家路に着く。待ちわびていた家族と共にほおばる一口のパンの美味しさは格別だろう。 日本人にはわからない彼らだけに神が与えた"恵み"がそこにはある。