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第13回目のお話 眠れぬ夜に

病気、移住に伴うストレスから「睡眠障害」というものを体験したというお話。 当初は病気が原因の体調の悪さであったが、そのうちどうやら自律神経の乱れによる不調に変わっていき、不眠に陥った。眠れない夜を過ごして迎えた朝は当然絶不調。循環器にもよくないからと病院で処方された眠剤を服用してなんとか眠るという方策をとるしかなかった。眠剤を常用しても全く眠れない日もちょくちょくあり、もう本当に辛かった。  「自律神経を整えて良い眠りを」などと謳った本をよく目にする。 その内容は例えば、ぬるめのお湯にゆっくり浸かろう、ハーブティーで心もゆるめて、寝る前5分はストレッチタイム、部屋の明かりはぼんやりと、ヒーリングミュージックで癒されてなどなど。 もちろん私も全て試した。が、ダメだった。 体調が悪化して3週連続で主治医(循環器内科)に相談に行った時のこと。    先生 「検査数値は特に悪くなってないんですけど。具合悪そうですねー。大丈夫ですか〜?」 と私の顔を見るなり仰った。  私 「大丈夫じゃないですー。眠れなくて食べたくなくて気分も重いんです。眠剤をを常用してることにも抵抗があります。依存してしまう気がして。」 と率直に訴えてみた。  先生 「もう依存しちゃってますねえ、かなり。精神的にも色々あるのかなあ。ほんとはじっくり聞いてあげられるといいんだけどね。」(僕は心療内科ではないんで)というニュアンスだった。 この不調がどこから来ているのか実は医者にもわからないのだろうと私は察した。わからないなりに患者の思いに寄り添ってあげたいという先生の姿勢が感じ取れたので、私はひとまず安心して家路についた。  ところで、イスラームには「眠りは死と兄弟」という教えがある。死ぬとき神が人間の魂を抜き取るのと同様に、眠っているとき私たちの魂は神のもとにあり、目覚めれば再び戻されるという。なのでイスラム教徒は朝目覚めた瞬間に感謝の祈りを捧げる。私の命を私に戻され、私が眠っている間に死を与えられなかった神に讃えあれと。 自分でコントロールしていると思っている眠りと目覚めが、実は神の采配で行われているのだと確認するのだ。 眠るための条件を知ることと、実際に眠りに落ちるということの違いはなんと大きいことか。  どうしてかわからないまま10ヶ月が過ぎた頃次第に眠れるようになった。皆が当たり前...

第12回目のお話 ミツツボアリ

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ミツツボアリは花蜜を貯蔵係の働きアリの体内に蓄える。この生きた"蜜壺"のおかげで、食べ物が乏しい時期にもアリの群れは生き延びることができる。 孫と一緒に見ていた図鑑の中で見つけたこのアリに私は惹きつけられてしまった。もう少しその生態を詳細に語ってみる。

第11回目のお話 人工知能(AI)にできないこと

ソサエティ5.0 (society 5.0)というのがあって、日本が提唱する未来社会のコンセプトのことであるらしい。AIやロボットなどを取り入れることで実現する新しい社会の姿だという。今後ますますAIが活躍するであろう。 しかしながらこの素晴らしきAIにもできないことはもちろんあり、そのひとつが 「志を持つこと」 であると言われる。良い意志を持ち自ら選択した道を行くことができるのは人間だけに許されている。 もちろんいいと判断し実行しようとしたが、志半ばにして頓挫してしまった、綿密な計画のもと取り組んだ結果は惨憺たるものだったなど、実を結ばなかったということもよくある。成功を見る前に命尽きたということも。 ソサエティ5.0においては結果がすべてなのかもしれない。だが実は世界はこの世界だけではない。真の成功は死後にあるとイスラームでは考える。 日常において私たちは常に選択を迫られている。本当のところ、頑張っても頑張らなくても行く末は既に決まっている(神さまはすべてご存知)。ではなぜ私たちはどの道を行くべきか悩むのだろうか。意味がないのではないか? もとより私たちが知り得ないことをご存知の神さまは、私たちの内面を、私たちが抱く意志をご覧になりそれを重要視されるのだ。 無力な人間にできることは、良い意志を持てるよう祈りながら「行なう」こと 。実際に出来なかったとしても、その方向へ体を向けること、せめてつま先だけでも向けようとすることではないだろうか。 そうしていればAIがいかに台頭しようと怖くないぞという気がする。

第10回目のお話 泡の如く

 2月の初日だというのに午後の日差しは柔らかくて久々に手袋なしで歩けた。こんな日はボーッとしてしまう。まるで何も学んだことがない昔のように難しい事柄からできるだけ離れたいと思っている。虚ろだ。 「この世は泡のようなもの」 と言われるけれど、本当にそんな感覚。自分が宙を漂う一つの泡であって、それは美しい虹色になんか輝いてなくて、様々な顔をして様々な心を持った泡。今までに犯してしまった罪の数々を、これからどのようにでも変容可能な未来を抱きかかえたまま薄グレーのまま漂っている。 そう思えて仕方なかった。  泡はやがて消えて無くなる。この世のありとあらゆるものが消えたところにただおひとり鎮座するのが創造主であるが、この創造主のみを崇拝するのがイスラーム教徒なのである。 実にスッキリわかりやすい宗教ではないだろうか。そして好むと好まざるに関わらず万物はそのお方に従っている。 こんな風に考えているとふっと楽な気持ちになってくる。 まだ安心して漂っていてもいい。