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3月, 2021の投稿を表示しています

試練のときに

生きていればさまざまな問題に出くわす。もしひとつの問題から逃れたならば、あなたはまた次の問題に襲われる。おおきなできごと、小さなできごと、心を引き裂かれるような、どうしようもないできごと。それらはあなたが死を迎えるまで終わらない。 この世で人間に降りかかる試練や苦難はすべて神がずっと以前にお決めになったことが、お決めになったときに、お決めになった人間にやってきているにすぎない。そう、私たちにはその配達物を日時指定にすることはできない。受取拒否も転送も無理。 それならば、受け取り手の私たちにできることは何だろうか。 本来、良いことも悪いことも全ては神からのものだが、人間に起きる悪いこと(自分にとって辛く苦しく感じること)は、自分自身の罪ゆえなのだという。 その意味は、私たちの心を器に例えるなら、神が注がれる水がよく磨かれたガラスの器に入れば、その水の透明度は保たれる。が、もし初めから汚れた器に入れば、その水は濁って悪臭さえ放つ。日頃から自分の器をより透明に近づけるような心がけは大事であろう。 試練の中にいるときは、あなたに心の余裕があるなら、100パーセントの解決などないということ、5パーセントでもベターと思えることに体を向けることを考えてじっと堪えることが良いと思う。もし、あなたになんの力も残されていないときは、ただしゃがみ込んで待つこと。しゃがみ込まないと見えない景色もきっとある。 そして忘れないで欲しい。全ての問題は必ず終わることを。背負い込んだあなたの荷物の分だけ神はあなたを愛しているということを。 憂に満ちたその横顔には神の恩寵がすでに見え隠れしている。 だから大丈夫…。

小さな楽しみ オオカマキリの卵

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近所で見つけたオオカマキリの卵。二月から毎日のように観察して、今日も無事だった〜と安心したりしている。 枯れ枝にしっかりとくっついていて、中にある数百個の卵は天然の断熱材のようなもので保護されている。 ちょっと触れてみると、ちょうどメレンゲを焼いたものと感じが似ている。 4月ごろ可愛らしい子供たちがゾワゾワ出てくる予定である。しかし、めでたく出てきても大人になるまで生き延びのはたった数匹らしい。 それはまさに創造主の計画どおりである。カマキリは自分がどのくらい地上で生きられるのか知らずに出てくる。人間だっておんなじだ。ある日この世に落とされて意味もわからず生きていて、そしてある日死んでいく、それだけのことだ。 もちろん私はこのカマキリの誕生の瞬間に立ち会いたいという軽い願望があるが、例えそれが叶わなくてもしかたない。 ある日卵が吹っ飛んでしまっても、人間の足で踏み潰されてしまっても、創造主の計画が実行されたことに私は畏怖の念をおぼえるだろう。 小さな楽しみは消えても、創造主の御力の現れに私は満足するだろう。 とりあえず今日も私の小さな楽しみは安泰だった。

昭和下町物語  その3

記憶の中のちょっぴり切ないエピソードを拾ってみた。 昭和30年代から盛んになった集団就職。中学を卒業したばかりの男女が集団で列車に乗り郷里を離れ、東京などの都会にある商店などにそれぞれ就職するのである。我が家にも東北出身の若者が二人住み込みで働いていた。そのひとりであったS君はうちに来た当初、店にあった売り物のアイスクリームを悪びれる様子もなく勝手に食べていた。気づいた母がS君に注意してそれは止んだ。 夕食後、茶の間にあったテレビのチャンネル権をいつも奪おうとするから私は母に泣きついた。母が諭してからそれは止んだ。私の愛猫タマをいつもいじめるから、タマは彼を見るなりシャーッと威嚇してから疾風のように逃げて行くのだった。やんちゃなS君。私より九つ上の姉とは同い年だったが、実は彼女に密かに思いを寄せていたことが後に分かった。姉の結婚が決まってから程なくして傷心のS君は店を辞めていった。 いっとき習字を習わされていたことがある。 近所にあった町工場の2階がお教室だった。そこは3畳ひとまに小さな台所だけの質素な住まいでH先生(年齢は30代終わりくらいで、眼鏡をかけた少し天然パーマの小柄な男性) は、共働きの奥さんと二人で暮らしていた。夕方奥さんが帰ってくると晩御飯の準備をする。その部屋で私はもう一人の生徒だったK君と習字を教わった。 ある日、先生は顔を赤らめながらパスポートを見せた。「僕たち沖縄旅行に行くんです。お金もドルに変えなきゃ。外国旅行なんだ。」と得意げに話した。奥さんはニコニコして聞いている。K君と私は、うまいあいづちの仕方がわからなくて、黙って聞いていた。 その旅行は新婚旅行だったのかもしれないと思った。 小学校へ入る前によく遊んでくれた三つか四つ年上のゆみちゃん。面倒見の良い女の子で、自分の小さいおとうとたちのこともよく可愛がっていた。優しくてお姉さんぽくて笑顔が可愛らしい子だった。裏の古いアパートに住んでいたが、お母さんの姿は見たことがなかった。時たまお父さんに叱られたと言って、暗くなった頃外に出されて泣いていた。どんな家庭の事情があったのか私にはわからないが、いつの間にか何も言わずに引っ越していった。 もう二度と会うかとはないけど、この人たちがこの世に生きてた証はしっかりとあの頃...

第15回目のお話  昭和下町物語 その2

 アッサラームアライクム 今ではもう姿を消してしまったいくつかの商売のお話をしたい。 我が家の真正面には貸本屋があって、一日10円か20円で本や雑誌が借りられた。小学生の頃の私の愛読書は「サザエさん」だった。全68巻をこの店から借りて読破した。 貸本屋のおばさんは物腰のやわらかな親切な人で、私たち姉妹の好きな月刊誌が入荷するとピシッとビニールカバーをつけたてのものを真っ先に家に持って来てくれた。まだ誰も触れてないページをめくるときの幸せ感は忘れられない。 貸本屋の隣はレコード店だった。当時、デビューしたての歌手が新曲のキャンペーンのために町のレコード屋を回るというのがあった。店の前にのぼりを立ててタスキ掛けの歌手がサイン会みたいなことをやるのだ。 さして歌など興味のない人たちでもこの日はにわかファンになり集まってくる。何人か来た歌手、たいていはパッとせずに消えていった。が、たまたまテレビに出てるのを見て、「あ、この人来たよねー。」とか言って家族で盛り上がるのが面白かった。 家のすぐ裏に住んでいた「お産婆さん」。今で言う助産婦だが、個人経営でお産の時に出張してくれる。私も自宅でこのおばあさんに取り上げてもらったらしい。出産後も何かにつけて母はこの人に世話になったという。私の3歳の誕生日の写真にも彼女が家族の一員として写っていた。 午後になるとどこからかやってくるおでん屋の屋台。おじさんが鳴らすチリンチリンとともに漂ってくるおでんの匂いは幸せを運んでくれた。鍋を持参して買いに来る主婦たちのほかに、小銭を握りしめ集まってくる子供たち。屋台の周りにはあっという間に人の群れができる。私は、串に刺さった大きなちくわぶが大好きだった。 夕暮れの空の向こうに子供たちの声が吸い込まれていくような気がした。 つづく  昭和下町物語 その1 つづく

第14回目のお話 昭和下町物語 その1

私は東京のとある商店街のど真ん中で生まれ育った。時は昭和30〜40年代、日本は高度成長期の真っ只中。あらゆる店が軒を連ね、一本細い路地を入れば民家がごちゃごちゃと立ち並んだ、活気あふれる町だった。我が家も商売を営んでいて、開放された正面とびらから毎日多くのひとが出入りしていた。 記憶を頼りに当時出会った"ちょっと変な人たち" の話をしたい。 丈の短い黒い着物に白い帯、下駄を鳴らして颯爽と歩く背の高いおじさん。 頭にはなぜかヘアバンド、必ず真っ白の手袋をつけていた。巾着袋から出すお金が猛烈消毒薬臭かった。ちょっと濃い顔で表情が硬くて、なんか武士みたいだと思った。 でっぷりした体格でちょっと浅黒くて、どこへ行くにも普段着っぽいテロテロしたブラウスにやっぱりテロテロしたスカート履いて、いつも腰エプロンをしていた中年の女性。 耳が聞こえなくて言葉も不明瞭だけど、なぜか情報通。一丁目のお祭りでだれそれが神輿を担いだよとか、浅草まで行って買ってきたとか言って太い首に巻いてたちっちゃいスカーフを自慢げに私の母に見せる。母に聞いたらこのおばさん、私が赤ちゃんの時から来ていて家事を手伝ってくれていたらしい。母がお小遣いを上げておやつをもたせると、歯のない口を大きく開けて笑うのだ。どこかのアパートに老齢の父親と二人で住んでいた。生活大変なのに幸せそうなひとだった。 近所の人が皆 "つねさん" と呼んでいた男性がいた。坊主頭で色白、小柄でいつもランニングシャツと短パンにゴムゾウリ。ポケットに手を突っ込んで小銭をチャリチャリ鳴らして笑いながら歩いている。時々独り言いいながら。年齢不詳。 つねさんがまともに喋るのを見たことはないが、いつも取り巻きがいて、みんなから守られてるみたいだった。みんなから好かれているんだろうなと思った。つねさんに会いたいと思ったら、縁日がいい。たいていバナナの叩き売りの口上を一番前で聞いてるから。買うでもなく、ヤジを飛ばすでもなく、やっぱり小銭をチャリチャリさせて。 これらの人たちの本名も素性もいつまでそこに住んでたのかも私は知らない。      …つづく