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ウイルス学者山内一也氏のお話から

「…生命の一年歴というものがあります。これは地球が46億年前にできて、そこから現代までを一年に例えると、ウイルスが出現したのは5月の始めです。人間が出現したのが12月31日の最後の数秒だった。ほんのひととき。ウイルスにとっては取るに足りない存在だと思うのです。 コロナウイルスに例えて言えば、コウモリという宿主でずっと一万年前からいる。(ウイルスが)人間の方に来なければいいだけですが、来るように仕向けているのが人間社会なのですね。ウイルス対人類と考えてもいいですが、ただ敵というか、勝つとか負けるとかいう相手ではありません。…」(山内一也氏のお話からの引用) 非常に興味深い内容だった。愚かで脆弱な人間としてこの世に今生きている私達は、この世に起こるあらゆることをできる限りあるがままに見つめることが肝要なのだと私は思う。 畏怖と驚嘆の念を持って。

アブさんの日本滞在記 その4

F社での仕事はおおむね順調でコツコツ働いて貯めたお金でなんとかスーダンに家を建てることも叶ったのだ。 Y社長は親切で、アブさんの母親が亡くなったときも帰国もままならず、気落ちした彼にお見舞い金をそっと差し出してくれたりもした。 ところでアブさんは数年の間に何度も転居している。(定住できない事情があったのだが) F社勤務もそろそろ10年になろうかという頃、同郷の友人Mと二人で部屋を借りていた。 ある日Mは唐突に、 「実は、近所のコンビニで知り合いになった日本人女性と結婚しようと思う。」 と言い出した。そして、 「ここは襖で仕切ればふた部屋になるから、彼女を連れてきて一緒に住めないだろうか。」とも言った。 アブさんは少し驚いたが、仲間の結婚を祝福してしぶしぶ承諾した。こうして3人の共同生活が始まった。 はじめは和気あいあいと暮らしていたのだが、やはり新婚カップルにおじゃま虫という構図は日に日にあからさまになっていく。 カップルは何かにつけてアブさんに意地悪するようになる。例えば、彼がいない時を見計らっては二人でおいしいものを食べたりもしていた。彼は次第にMといさかいが多くなり心痛める日々となった。 ここを出たいと考え同居する友達を他に探したが、その頃には他の仲間たちもそれぞれ結婚したり、帰国したりして徐々にバラバラになっていた。 ついにアブさん、意を決して一人暮らしをすることにした。日本に来てはじめてのことだった。 見つけたアパートは6畳一間風呂無し共同トイレ。古い木造アパートだが、仕事場からも駅からも数分の便利さ。何より大家さんは優しいおばあちゃんだった。 新生活を始めるには申し分ない物件である。 一人暮らしにも慣れてきたある初夏の夕暮れ時、仕事から戻ったアブさんの携帯が鳴った。久しく話していなかった友人のZからの電話だった。Zは大使館勤務のため普段は会うこともないが、何か特別なニュースがあるのかもと電話に出た。 Zはいつになく弾んだ声で、 「アブさんに紹介したい人がいるんだが、」 と言った。 アブさんの運命が変わる瞬間だった。 いやあらかじめ決まっていたことがこの日このときに目の前に降りてきたということかもしれない。 つづく

アブさんの日本滞在記 その3  

日本の暮らしにも少しずつ慣れて、言葉も多少わかるようになってきた。次に、定期収入を得られる仕事が必須になってくる。 そこでアブさんは同居人のひとりであるSを伴い職探しに出た。その方法がなんとも無謀でのどかでアフリカっぽい。町をぶらぶらしながら、手当たり次第に会社を見つけてはとびこむのだ。アブさんとS、交互に一人ずつアタックする。 いくつもの会社をあたり、脚が棒になりかけたとき、Sはねをあげてしまった。 「もうあきらめて帰ろうよ、アブさん。この辺りじゃ仕事は見つからないよ。」 しかしアブさんはしぶとかった。 「次は私の番だから、もう一回頑張ってみる。」 と言って、とび込んだのは株式会社Fという看板を掲げた工場だった。 「こんにちはー。」元気よく入ってゆくと、30代後半と思われる女性が出てきた。 「なんでしょうか〜。」 訝しげにアブさんはを見た。 「仕事ありませんかー。」 だめもとでひとこと。 すると女性は少し考えていたが、 「ありますよー。」 答えたのだ。 「どちらの国の方?」 「スーダン。アフリカのスーダンです!私ともう一人友だちがいます。いいですか?」 「できれば数人欲しいんだけど。」 女性の思いがけない言葉にアブさんは叫び出したい気持ちになった。 「はいっ!。5、6人ならゼッタイだいじょうぶです!」  自信満々に言った。 この吉報を持って外で待機していたSに伝えた。 「仕事あったよ!私たちみんな働けるんだ。アルハムドリッラー。」 執念の仕事探しは成功して、その後10数年もの間Fという会社は日本に来たスーダン人が最初に働く場所になったのである。

アブさんの日本滞在記 その2

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仲間に助けられての日本の暮らしは続いていた。衣類はもっぱらどこかの古着屋で調達することが多かった。安くてサイズぴったりのジーンズが見つかり履いていた。 ある日、腰のあたりが痛かゆいなと思っていると、その不快感は日増しにひどくなり、皮膚が化膿して出血してズボンにまで染み渡るほどになってしまった。生まれて初めての出来事にアブさんは恐れおののき、仲間に付き添われて病院デビューした。 診察を終えた医師は何か説明していたがやっぱりわからない。とりあえず処方された薬を塗り、絆創膏を貼って様子を見ることになった。 アブさんが家で休んでいると、心配して訪ねて来た友だちがアブさんの患部を見るなり顔をしかめて言った。 「アブさーん、これひどいよー。これエイズだよ、きっと。」 これを聞いたアブさんがまに受けて打撃を受けたのは言うまでもない。 アブさんはショックのあまり数日間寝込んでしまった。はるばるやって来た日本で、何も得ていないうちに、自分は死ななければならない。哀れな自分を思い、布団の中でおいおい泣いていた。 やがて薬が効いてきて数日後にはほぼ回復した。アブさんはエイズじゃなかった!アルハムドリッラー。 しかし、彼はそれ以来どんなに貧しても古着を身につけることはしなくなった。 (古着と皮膚病との因果関係は不明のままだが)。 続く…  【 散策 神社へ向かう道の枝垂桜は満開を迎えて】  

アブさんの日本滞在記 その1

アブさんが初めて日本の地を踏んだのは1993年5月のことだった。もちろん日本語はひとこともわからず、日本という国についての予備知識だって皆無だったが、すでに来日していたスーダン人仲間をたよりに新しい生活に飛び込んだのだった。 アフリカからやってきたアブさんの1番の苦手は日本の冬である。初めて迎えた冬のある日、数人の友だちと同居していたアパートに1人でいたアブさん。初めてひとりで外出してみた。と言っても寒すぎて数十メートル先の角までがやっと。 ふと見ると飲み物の自動販売機がある。日本ではどこにでもあるが、スーダンでは見たことがなかった。身を縮ませながら珍しげに見ていると、通りがかりの警官が彼のところに近づいてきて何か声をかけたのだ。 を言ってるかわからないアブさん、これは不審尋問されてると思い身構えた。するとこの警官はポケットから小銭を出して缶コーヒーを買い、それをあぶさんに差し出したのだ。びっくりしたりほっとしたり、アブさんはその温かいコーヒーを両手で包みながら頭を下げた。初めて触れた日本人の優しさだった。そしてぬくもりだった。アルハムドリッラー。 つづく…

試練のときに

生きていればさまざまな問題に出くわす。もしひとつの問題から逃れたならば、あなたはまた次の問題に襲われる。おおきなできごと、小さなできごと、心を引き裂かれるような、どうしようもないできごと。それらはあなたが死を迎えるまで終わらない。 この世で人間に降りかかる試練や苦難はすべて神がずっと以前にお決めになったことが、お決めになったときに、お決めになった人間にやってきているにすぎない。そう、私たちにはその配達物を日時指定にすることはできない。受取拒否も転送も無理。 それならば、受け取り手の私たちにできることは何だろうか。 本来、良いことも悪いことも全ては神からのものだが、人間に起きる悪いこと(自分にとって辛く苦しく感じること)は、自分自身の罪ゆえなのだという。 その意味は、私たちの心を器に例えるなら、神が注がれる水がよく磨かれたガラスの器に入れば、その水の透明度は保たれる。が、もし初めから汚れた器に入れば、その水は濁って悪臭さえ放つ。日頃から自分の器をより透明に近づけるような心がけは大事であろう。 試練の中にいるときは、あなたに心の余裕があるなら、100パーセントの解決などないということ、5パーセントでもベターと思えることに体を向けることを考えてじっと堪えることが良いと思う。もし、あなたになんの力も残されていないときは、ただしゃがみ込んで待つこと。しゃがみ込まないと見えない景色もきっとある。 そして忘れないで欲しい。全ての問題は必ず終わることを。背負い込んだあなたの荷物の分だけ神はあなたを愛しているということを。 憂に満ちたその横顔には神の恩寵がすでに見え隠れしている。 だから大丈夫…。

小さな楽しみ オオカマキリの卵

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近所で見つけたオオカマキリの卵。二月から毎日のように観察して、今日も無事だった〜と安心したりしている。 枯れ枝にしっかりとくっついていて、中にある数百個の卵は天然の断熱材のようなもので保護されている。 ちょっと触れてみると、ちょうどメレンゲを焼いたものと感じが似ている。 4月ごろ可愛らしい子供たちがゾワゾワ出てくる予定である。しかし、めでたく出てきても大人になるまで生き延びのはたった数匹らしい。 それはまさに創造主の計画どおりである。カマキリは自分がどのくらい地上で生きられるのか知らずに出てくる。人間だっておんなじだ。ある日この世に落とされて意味もわからず生きていて、そしてある日死んでいく、それだけのことだ。 もちろん私はこのカマキリの誕生の瞬間に立ち会いたいという軽い願望があるが、例えそれが叶わなくてもしかたない。 ある日卵が吹っ飛んでしまっても、人間の足で踏み潰されてしまっても、創造主の計画が実行されたことに私は畏怖の念をおぼえるだろう。 小さな楽しみは消えても、創造主の御力の現れに私は満足するだろう。 とりあえず今日も私の小さな楽しみは安泰だった。

昭和下町物語  その3

記憶の中のちょっぴり切ないエピソードを拾ってみた。 昭和30年代から盛んになった集団就職。中学を卒業したばかりの男女が集団で列車に乗り郷里を離れ、東京などの都会にある商店などにそれぞれ就職するのである。我が家にも東北出身の若者が二人住み込みで働いていた。そのひとりであったS君はうちに来た当初、店にあった売り物のアイスクリームを悪びれる様子もなく勝手に食べていた。気づいた母がS君に注意してそれは止んだ。 夕食後、茶の間にあったテレビのチャンネル権をいつも奪おうとするから私は母に泣きついた。母が諭してからそれは止んだ。私の愛猫タマをいつもいじめるから、タマは彼を見るなりシャーッと威嚇してから疾風のように逃げて行くのだった。やんちゃなS君。私より九つ上の姉とは同い年だったが、実は彼女に密かに思いを寄せていたことが後に分かった。姉の結婚が決まってから程なくして傷心のS君は店を辞めていった。 いっとき習字を習わされていたことがある。 近所にあった町工場の2階がお教室だった。そこは3畳ひとまに小さな台所だけの質素な住まいでH先生(年齢は30代終わりくらいで、眼鏡をかけた少し天然パーマの小柄な男性) は、共働きの奥さんと二人で暮らしていた。夕方奥さんが帰ってくると晩御飯の準備をする。その部屋で私はもう一人の生徒だったK君と習字を教わった。 ある日、先生は顔を赤らめながらパスポートを見せた。「僕たち沖縄旅行に行くんです。お金もドルに変えなきゃ。外国旅行なんだ。」と得意げに話した。奥さんはニコニコして聞いている。K君と私は、うまいあいづちの仕方がわからなくて、黙って聞いていた。 その旅行は新婚旅行だったのかもしれないと思った。 小学校へ入る前によく遊んでくれた三つか四つ年上のゆみちゃん。面倒見の良い女の子で、自分の小さいおとうとたちのこともよく可愛がっていた。優しくてお姉さんぽくて笑顔が可愛らしい子だった。裏の古いアパートに住んでいたが、お母さんの姿は見たことがなかった。時たまお父さんに叱られたと言って、暗くなった頃外に出されて泣いていた。どんな家庭の事情があったのか私にはわからないが、いつの間にか何も言わずに引っ越していった。 もう二度と会うかとはないけど、この人たちがこの世に生きてた証はしっかりとあの頃...

第15回目のお話  昭和下町物語 その2

 アッサラームアライクム 今ではもう姿を消してしまったいくつかの商売のお話をしたい。 我が家の真正面には貸本屋があって、一日10円か20円で本や雑誌が借りられた。小学生の頃の私の愛読書は「サザエさん」だった。全68巻をこの店から借りて読破した。 貸本屋のおばさんは物腰のやわらかな親切な人で、私たち姉妹の好きな月刊誌が入荷するとピシッとビニールカバーをつけたてのものを真っ先に家に持って来てくれた。まだ誰も触れてないページをめくるときの幸せ感は忘れられない。 貸本屋の隣はレコード店だった。当時、デビューしたての歌手が新曲のキャンペーンのために町のレコード屋を回るというのがあった。店の前にのぼりを立ててタスキ掛けの歌手がサイン会みたいなことをやるのだ。 さして歌など興味のない人たちでもこの日はにわかファンになり集まってくる。何人か来た歌手、たいていはパッとせずに消えていった。が、たまたまテレビに出てるのを見て、「あ、この人来たよねー。」とか言って家族で盛り上がるのが面白かった。 家のすぐ裏に住んでいた「お産婆さん」。今で言う助産婦だが、個人経営でお産の時に出張してくれる。私も自宅でこのおばあさんに取り上げてもらったらしい。出産後も何かにつけて母はこの人に世話になったという。私の3歳の誕生日の写真にも彼女が家族の一員として写っていた。 午後になるとどこからかやってくるおでん屋の屋台。おじさんが鳴らすチリンチリンとともに漂ってくるおでんの匂いは幸せを運んでくれた。鍋を持参して買いに来る主婦たちのほかに、小銭を握りしめ集まってくる子供たち。屋台の周りにはあっという間に人の群れができる。私は、串に刺さった大きなちくわぶが大好きだった。 夕暮れの空の向こうに子供たちの声が吸い込まれていくような気がした。 つづく  昭和下町物語 その1 つづく

第14回目のお話 昭和下町物語 その1

私は東京のとある商店街のど真ん中で生まれ育った。時は昭和30〜40年代、日本は高度成長期の真っ只中。あらゆる店が軒を連ね、一本細い路地を入れば民家がごちゃごちゃと立ち並んだ、活気あふれる町だった。我が家も商売を営んでいて、開放された正面とびらから毎日多くのひとが出入りしていた。 記憶を頼りに当時出会った"ちょっと変な人たち" の話をしたい。 丈の短い黒い着物に白い帯、下駄を鳴らして颯爽と歩く背の高いおじさん。 頭にはなぜかヘアバンド、必ず真っ白の手袋をつけていた。巾着袋から出すお金が猛烈消毒薬臭かった。ちょっと濃い顔で表情が硬くて、なんか武士みたいだと思った。 でっぷりした体格でちょっと浅黒くて、どこへ行くにも普段着っぽいテロテロしたブラウスにやっぱりテロテロしたスカート履いて、いつも腰エプロンをしていた中年の女性。 耳が聞こえなくて言葉も不明瞭だけど、なぜか情報通。一丁目のお祭りでだれそれが神輿を担いだよとか、浅草まで行って買ってきたとか言って太い首に巻いてたちっちゃいスカーフを自慢げに私の母に見せる。母に聞いたらこのおばさん、私が赤ちゃんの時から来ていて家事を手伝ってくれていたらしい。母がお小遣いを上げておやつをもたせると、歯のない口を大きく開けて笑うのだ。どこかのアパートに老齢の父親と二人で住んでいた。生活大変なのに幸せそうなひとだった。 近所の人が皆 "つねさん" と呼んでいた男性がいた。坊主頭で色白、小柄でいつもランニングシャツと短パンにゴムゾウリ。ポケットに手を突っ込んで小銭をチャリチャリ鳴らして笑いながら歩いている。時々独り言いいながら。年齢不詳。 つねさんがまともに喋るのを見たことはないが、いつも取り巻きがいて、みんなから守られてるみたいだった。みんなから好かれているんだろうなと思った。つねさんに会いたいと思ったら、縁日がいい。たいていバナナの叩き売りの口上を一番前で聞いてるから。買うでもなく、ヤジを飛ばすでもなく、やっぱり小銭をチャリチャリさせて。 これらの人たちの本名も素性もいつまでそこに住んでたのかも私は知らない。      …つづく

第13回目のお話 眠れぬ夜に

病気、移住に伴うストレスから「睡眠障害」というものを体験したというお話。 当初は病気が原因の体調の悪さであったが、そのうちどうやら自律神経の乱れによる不調に変わっていき、不眠に陥った。眠れない夜を過ごして迎えた朝は当然絶不調。循環器にもよくないからと病院で処方された眠剤を服用してなんとか眠るという方策をとるしかなかった。眠剤を常用しても全く眠れない日もちょくちょくあり、もう本当に辛かった。  「自律神経を整えて良い眠りを」などと謳った本をよく目にする。 その内容は例えば、ぬるめのお湯にゆっくり浸かろう、ハーブティーで心もゆるめて、寝る前5分はストレッチタイム、部屋の明かりはぼんやりと、ヒーリングミュージックで癒されてなどなど。 もちろん私も全て試した。が、ダメだった。 体調が悪化して3週連続で主治医(循環器内科)に相談に行った時のこと。    先生 「検査数値は特に悪くなってないんですけど。具合悪そうですねー。大丈夫ですか〜?」 と私の顔を見るなり仰った。  私 「大丈夫じゃないですー。眠れなくて食べたくなくて気分も重いんです。眠剤をを常用してることにも抵抗があります。依存してしまう気がして。」 と率直に訴えてみた。  先生 「もう依存しちゃってますねえ、かなり。精神的にも色々あるのかなあ。ほんとはじっくり聞いてあげられるといいんだけどね。」(僕は心療内科ではないんで)というニュアンスだった。 この不調がどこから来ているのか実は医者にもわからないのだろうと私は察した。わからないなりに患者の思いに寄り添ってあげたいという先生の姿勢が感じ取れたので、私はひとまず安心して家路についた。  ところで、イスラームには「眠りは死と兄弟」という教えがある。死ぬとき神が人間の魂を抜き取るのと同様に、眠っているとき私たちの魂は神のもとにあり、目覚めれば再び戻されるという。なのでイスラム教徒は朝目覚めた瞬間に感謝の祈りを捧げる。私の命を私に戻され、私が眠っている間に死を与えられなかった神に讃えあれと。 自分でコントロールしていると思っている眠りと目覚めが、実は神の采配で行われているのだと確認するのだ。 眠るための条件を知ることと、実際に眠りに落ちるということの違いはなんと大きいことか。  どうしてかわからないまま10ヶ月が過ぎた頃次第に眠れるようになった。皆が当たり前...

第12回目のお話 ミツツボアリ

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ミツツボアリは花蜜を貯蔵係の働きアリの体内に蓄える。この生きた"蜜壺"のおかげで、食べ物が乏しい時期にもアリの群れは生き延びることができる。 孫と一緒に見ていた図鑑の中で見つけたこのアリに私は惹きつけられてしまった。もう少しその生態を詳細に語ってみる。

第11回目のお話 人工知能(AI)にできないこと

ソサエティ5.0 (society 5.0)というのがあって、日本が提唱する未来社会のコンセプトのことであるらしい。AIやロボットなどを取り入れることで実現する新しい社会の姿だという。今後ますますAIが活躍するであろう。 しかしながらこの素晴らしきAIにもできないことはもちろんあり、そのひとつが 「志を持つこと」 であると言われる。良い意志を持ち自ら選択した道を行くことができるのは人間だけに許されている。 もちろんいいと判断し実行しようとしたが、志半ばにして頓挫してしまった、綿密な計画のもと取り組んだ結果は惨憺たるものだったなど、実を結ばなかったということもよくある。成功を見る前に命尽きたということも。 ソサエティ5.0においては結果がすべてなのかもしれない。だが実は世界はこの世界だけではない。真の成功は死後にあるとイスラームでは考える。 日常において私たちは常に選択を迫られている。本当のところ、頑張っても頑張らなくても行く末は既に決まっている(神さまはすべてご存知)。ではなぜ私たちはどの道を行くべきか悩むのだろうか。意味がないのではないか? もとより私たちが知り得ないことをご存知の神さまは、私たちの内面を、私たちが抱く意志をご覧になりそれを重要視されるのだ。 無力な人間にできることは、良い意志を持てるよう祈りながら「行なう」こと 。実際に出来なかったとしても、その方向へ体を向けること、せめてつま先だけでも向けようとすることではないだろうか。 そうしていればAIがいかに台頭しようと怖くないぞという気がする。

第10回目のお話 泡の如く

 2月の初日だというのに午後の日差しは柔らかくて久々に手袋なしで歩けた。こんな日はボーッとしてしまう。まるで何も学んだことがない昔のように難しい事柄からできるだけ離れたいと思っている。虚ろだ。 「この世は泡のようなもの」 と言われるけれど、本当にそんな感覚。自分が宙を漂う一つの泡であって、それは美しい虹色になんか輝いてなくて、様々な顔をして様々な心を持った泡。今までに犯してしまった罪の数々を、これからどのようにでも変容可能な未来を抱きかかえたまま薄グレーのまま漂っている。 そう思えて仕方なかった。  泡はやがて消えて無くなる。この世のありとあらゆるものが消えたところにただおひとり鎮座するのが創造主であるが、この創造主のみを崇拝するのがイスラーム教徒なのである。 実にスッキリわかりやすい宗教ではないだろうか。そして好むと好まざるに関わらず万物はそのお方に従っている。 こんな風に考えているとふっと楽な気持ちになってくる。 まだ安心して漂っていてもいい。

第9回目のお話 スーダンからの電話 その2 (ジャラビーヤ)

 スーダンの男性が身に纏ってる白い長衣をジャラビーヤという。これに白いターバンを巻くのがごく一般的な装いである。冠婚葬祭何かにつけて集まることの大好きなスーダン人だが、宴の際にジャラビーヤを着た男たちがずらっと並んで踊る光景は圧巻だ。 このジャラビーヤ、真っ白でどれも同じに見えるが、実はクオリティにも差があり、貧富の差はそこにも表れる。糊付け洗濯したてのジャラビーヤを羽織り、香水を振りかけてターバンを乗せて文字通りパリッとして出かけるのは気持ちいいものだと察する。  先日主人と電話中誰かが主人に近づいてきて数分話していた。電話に戻った主人が説明してくれた。 「今の人は隣人でとても貧しい。家族も多くて食べることで精一杯。ジャラビーヤがもし余分にあれば、どうか恵んでくれないか。」と言ったらしい。 そこで主人は、 「何枚かあると思う。洗濯して綺麗になったら持っていくから。」 と答えたらしい。 毎日身につける衣服がなくて仕方なく分けてもらいに行く隣人。自分もたくさん持ってるわけじゃないのに、躊躇なく上げてしまう主人。 私はこの小さな話に感動して心が温かくなった。私はスーダンにいたときこんな場面にはしょっちゅう出くわしていて慣れていたはずなのだ。なのに今なぜ? ジャラビーヤはたった一枚の衣服だが、これが動くときそれを手放す側と受け取る側の双方が神様を忘れていないから、またそう思えるから私は胸を熱くしてるのかもしれないととても単純に思った。

第8回目のお話 老いなき世界

 近頃ネット上で話題になっている本がある。「LIFE SPAN 」というタイトルでハーバード大学教授によるものである。その中に「今すぐ手に入る "老いなき身体" 」という章があって著者は4箇条を挙げている。それらは、 ① 食べる量と回数    を減らす ② 動物性タンパク  質を制限する ③ 軽い運動をする ④ 適度なストレス  に体をさらす というものだが、これらを見て意外だというよりはやっぱりねと思った人も多いのではないだろうか。近年盛んに言われている健康寿命を伸ばすにはという類いの話と大差ない実にシンプルなものである。  では人々はなぜこの本に興味を持ち、4箇条を実践してみようと思うのか?終末医療費問題を挙げる人もいる。老後自分の家族に面倒をかけたくない、死の直前までゴルフしたいからという人もいる。元気に暮らして楽に死にたいのは万人の望みなのである。  自分のことを言えば、一年前に体調を崩してから健康管理には人一倍気を遣ってきた気がする。ここに書いてある全てではないが自分のできる範囲でやってきた。その理由は何かと改めて考えてみた。 もともとこの世での一時的使用を許された私の身体をできるだけ大切に扱いたい。なにせ神様からの預かり物であるからよい状態でキープしたい。お返しするその日が来たらスッと返却してこの世の任務を終えたいと思っている。ただそれだけを思っている。だから長生きしたいとか、誰にも迷惑かけないようにしたいとか、老後を楽しみたいとかそんなことはどうでもよいのだ。4箇条が神の定めた運命に微塵も影響を与えないのだから。 私はただ今日を生きてゆくためにだけ今日も冷たい風の中を歩いている。

第7回目のお話 心筋生研ともふもふサンダル

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 一年前、心臓カテーテル検査と心筋生研を生まれて初めて経験した。  “ 心臓カテーテル検査とは、カテーテルと呼ばれる細い管を冠動脈の入り口まで通し、冠動脈内に造影剤を流し込みX線撮影をすることで、心筋生研とはカテーテル検査時に静脈から生研鉗子と呼ばれる小さな鉗子を用いて大きさ2.3ミリの僅かな心筋組織を採取する" と書いてあって、主治医もいたって軽い調子で説明するものだから、さして大変な検査ではなさそうだと思わされるが、実際やってみたら恐ろしかったというお話をしたい。  検査前日から入院したのだが、夕食後退屈しのぎにコンビニでも行こうかと病院の廊下をスタスタ歩いていた。すると、通りすがりの見知らぬ中年女性がニコニコしながら寄ってきて 「あらー、素敵な履き物ですねえ。どこで買われたんですか?」と言った。 私は少し戸惑いながら、 「これですか?娘が買ってくれたんでどこに売っているのかはちょっと…。」と応えた。 するとその女性は 「そんな素敵なサンダルを買ってお母様に持たせてくれる娘さんがいらっしゃるなんてお幸せですね〜。」 と告げて立ち去った。 そのサンダルというのがこの写真。どう見ても病院着の足元には似合わないし、ちょっとま んがっぽいし、恥ずかしいなと思っていた。まあお世辞だろうが、その女性が私を少しだけ幸せにしてくれたのは間違いない。  そして当日、検査台に寝かされ局所麻酔が打たれると検査開始。首の血管に針を刺し、管をぐいぐいと入れてゆく。痛みはないが、管が自分の血管の中を通ってゆくのがはっきりわかる。時折ぎゅーっと圧迫される感じがするとともに心拍数が跳ね上がる。すると検査途中でモニタールームの先生方が何か外部と連絡を取り合ったりして様子がおかしい。私のそばにいた看護師さんたちも消えた気配がして急に不安になった。首から管を入れられたまま私は一人残されてしまった。(という感じがした) その時の恐怖は耐え難かった。恐らく数分間しか経過していなかったのだろうが、私には数時間に思えた。やがて看護師さんはもどってくると、「機械の調整に時間がかかってしまいもうしわけありませんでした〜。再開しまーす。」と告げた。 私は最後まで辛抱できるのだろうか?このまま心臓が止まってしまわないか?トイレにもいきたい気がしてきたとあれこれ考えていた。 なにがどうなってもいいから、どう...

第六回目のお話 スーダンからの電話  その1

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スーダンにいる主人からの電話によってリアルタイムでの首都ハルツームの様子をうかがい知ることができる。 このところ"パン屋の行列''の話題が多い。毎日、パンを買うために何時間も並ばなくてはならないらしい。日本のようにどこどこの何々パンとかいう人気商品を求めてでなく、何の変哲もないコッペパンに似た、たった一種類のパンなのだが、これがなかなか手に入らない状況なのだという。( 政情不安で物価の高騰が止まず、小麦粉自体も品薄が続いているらしいが、本当の理由を私は知らない) 先日も主人はその行列の中から電話をくれた。やっと順番が来たと思いきや主人の前の人でちょうど売り切れてしまった。落胆しつつもしかたないので、また別の町に行きパン屋を探すと言う。パン争奪戦…これが日常だ。 今の日本にいれば想像することも難しいスーダンの光景だが、私はこの話を聞くたびに、満たされ過ぎた日本の食文化の中ですっかりぼやけた頭が一瞬にして冴え渡るのを感じる。自分が世界の中心ではないことを再確認できる。圧倒されたような、言葉にできないような感覚に襲われる。一体なぜだ? 家族のために糧を得るためだけに何時間も灼熱の太陽の下で並び待つスーダンの人々の姿が、 その行為そのものがすごくシンプルで、力強くてあたかも崇拝行為の如く 私には映るからかもしれない。 もっとフワフワしてて、とろけるくらいクリーミーな上質パンを求めてでなく"生"のためにだけ糧を求めている彼らを私は少しだけうらやましい。 そうやってゲットしたパンを抱えて家路に着く。待ちわびていた家族と共にほおばる一口のパンの美味しさは格別だろう。 日本人にはわからない彼らだけに神が与えた"恵み"がそこにはある。